HEENAT'S BLOG

いろいろと定まっていないブログです

映画『ボヘミアン・ラプソディ』はクイーン史に残る汚点

 あるいは、晩節を汚したブライアン・メイロジャー・テイラーについて。

 鑑賞後に残った違和感を、映画公開後の彼らのインタビューやサシャ・バロン・コーエンの暴露記事から考察する。

 

 フレディ・マーキュリーの人生にはもともと映画向きの──センセーショナルである意味キャッチーな──要素がいくつも備わっている。セックス・ドラッグ・ロックンロールに加え、移民、ゲイ、そしてエイズ……。一言で言うと、これらの“素晴らしい”素材をテンプレート的に投入し、要所にクイーンの名曲を流したら驚異の大ヒットを記録したのが本作『ボヘミアン・ラプソディ』である。

 本作はフレディ・マーキュリーの伝記映画でありながら、マーキュリーが題材である必要性が感じられないほどありきたりであり、目新しさが皆無の駄作である。さらにマーキュリーの伝記映画でありながら、マーキュリーの視点が完全に欠落した奇妙な映画であった。移民としての自分、ゲイ・ライフのこと、音楽に対する想い……なにひとつマーキュリーの視点で語られることはなかったのである。

 本作の製作には、生前のマーキュリーを近くで知るはずのクイーンの現役メンバーが深く関わっている。それでいて、完成した映画はお世辞にもマーキュリーの核心に迫ったとは言い難い出来であった。

 同時に、そのことは私にとって、ブライアン・メイロジャー・テイラーが何を目指して本作の製作にあたったのか、疑問を抱かせるには十分であった。

 つまり、問われているのはメイとテイラーの、伝記映画の製作に対する姿勢あるいは誠意である。

蔑ろにされるマーキュリーと配慮された現役メンバー

ボヘミアン・ラプソディ』が完成するまでには幾度の監督の変更、俳優の変更が発生した。最初に監督として内定していたデヴィット・フィンチャーは“クリエイティブの相違”を理由に降板し、フレディ役として内定していたサシャ・バロン・コーエンは辞退の理由をはっきりと現役のクイーンのメンバー(主にブライアン・メイ)との対立だと暴露している。

 上記事において、コーエンは自身と現役メンバーの、映画の製作スタンスの相違をこう説明している。

現在のクイーンの面々がフレディとクイーンの生き様を子供でも観られる内容の映画として描きたがっていたのに対して、自身はフレディのセクシュアリティと破天荒なライフスタイルをすべてぶちまけたセックス・ドラッグ・アンド・ロックンロールな内容の映画としてやりたかった

 監督と俳優の変更は、本作の映画としての方向性を決定付けるものであった。

 もしサシャ・バロン・コーエンがフレディを演じていたら、映画はよりフレディのセンセーショナルな面やセクシュアリティにフォーカスし、ある意味観客を選ぶような仕上がり(R指定など)になっていたかもしれないが、同時に少しはフレディという一人の人間の核心に触れることができていたかもしれない。

 また、あの『ソーシャル・ネットワーク』のデヴィット・フィンチャーが監督であったら、物語の都合上必要な──しかし現役メンバーにとって都合の悪いような──エピソードも容赦なく取り入れ、クイーンというバンドに深く踏み込んだ作品に仕上がっていただろう。

 しかし、そのどちらも現役メンバーにとっては全く重要ではないどころか、むしろ不要であったこと、そしてそれらよりも優先したい事情が他にあったのだということが、完成作品から窺える。

 かくして公開された『ボヘミアン・ラプソディ』は現役メンバーへの配慮が非常に行き届いた作品に仕上がっていた。現役メンバーのイメージが棄損されるような描写は一切なく、それどころかストーリーの都合上、実際にはフレディより先にロジャーとブライアンがソロ活動をしていたことには触れずに、まるでフレディの身勝手なソロ活動がバンドを引き裂いたとする史実の改変が行われる始末であった。

 しかし作中における当のメイとテイラーの描かれ方はというと、自らのイメージが壊れるのを恐れるあまりか、クイーンのメンバーでありながらもまるで名前だけ付けられたモブキャラのように、無害でつまらないキャラクターになり果てていた。自分の気に入らない映画を作る者を追い出し、残ったスタッフが忖度の限りを尽くした結果が、触らぬ神に祟りなしとばかりに、現役メンバーを描くこと自体の放棄を招いてしまったのは皮肉である。

 上記事ではフレディ・マーキュリー役のラミ・マレックの役作りへの熱心さを、以下の一文で表現しているのだが、

一方、ラミ・マレックは撮影後もフレディ・マーキュリーを模した偽の歯をつけ続けていたことを明かしている。

 あの間抜けな出っ歯を従順につけ続けていたラミ・マレックこそブライアンとロジャーに必要な傀儡だったのだ、と暗に表現しているようにも読める、なかなか味わい深い一節である。

歪められたフレディの肖像

 フレディ・マーキュリーの人生を扱いつつ、かつそれをお子様でも観られるような映画に仕上げるという作業は非常に相性が悪かったように思われる。それに加え、現役メンバーの監視下のもと制作された本作は、彼らのイメージを棄損するような内容を取り扱うことが出来ない、という縛りもあった。要はマーキュリーの伝記映画を謳いながら、マーキュリーの人生を描くよりも重視された事情が多すぎたのである。

 また、そもそも現役メンバーを含む製作陣がどれほどマーキュリーについて理解していたのか、という点にも疑問が残る。なぜならメイとテイラーは今まで一貫して「マーキュリーのプラベートについてはほとんど知らない」という態度を取ってきたからだ。

 このような制約のもとで、マーキュリーの人生を描くことに行き詰ると、実際には存在しなかったエピソードをでっちあげ、史実を改変して埋め合わせが行われた。レコード会社社長との口論、家族へのカミングアウト、ライブ・エイド前のHIV感染告白など、映画の数々の印象的なシーンが“創作”されていった。要は脚本の都合に合わせるために、マーキュリーの人生のほうがねじ曲げられていったのである。

 しかし、果たしてそれは伝記映画の製作において正しい姿勢と言えるのであろうか。

 上記事はその創作でツギハギされた“フレディの肖像”にご満悦のブライアン・メイのインタビューである。

フレディという並みはずれた男の良質な肖像が完成したと思う。そこには何よりも彼の傷つきやすさ、それに強さも、さらに彼の中の葛藤もあり、映画はそれを描くことに成功した。

 仮に創作されたエピソードでマーキュリーの孤独や強さを描くことに成功したとして、そんなまがい物の肖像に何の意味があるのか甚だ疑問である。本当のマーキュリーの人生を否定しているようにも見え、マーキュリーに対しても不誠実な態度である。

(ちなみにライブ・エイドの直前にHIV感染を告白するという改変は相当批判されたようで、のちのインタビューでは「当時マーキュリーの体の具合が悪いことには気付いていた」と弁解しているが、真相は闇の中である)

  とはいえ、伝記映画はドキュメンタリーではないので、創作自体が全く許されないということはない。たとえば伝記映画では「このときマーキュリーはなにを考えて、このような行動をとったのか」 を、マーキュリーが亡くなっている以上、故人の人物像を考察して独自に描くことが求められる。それもある意味では“創作”と言えるだろう。

 しかし本作で行われた創作の意図するものは全く別であった。「家族に自身のセクシュアリティをカミングアウトして和解できた」とか、「解散状態だったクイーンがフレディのHIV感染告白でひとつにまとまった」といった、終始、安い感動ポルノを生産する方向でのみ行われたのである。

 ロジャー・テイラーは、映画で特に印象に残ったシーンを聞かれ、こう答えている。

最も感動したエピソードの1つがフレディと父親との関係を描いた場面だ。父親が最終的にフレディの成し遂げたことを理解し、認めてくれたシーンは最高だった。あれはすばらしい瞬間だったね。

 前述したように、実際にはフレディによる家族へのカミングアウトはなかった。また、マーキュリーのプライベートについて関知していなかったはずのテイラーが、実際のマーキュリー親子の関係を熟知していたとは考えられない。とすると、作中の親子関係は創作されたものでしかありえず、自身で作り上げた感動ポルノに感動する様は完全にマッチポンプである。

 

 伝記映画の真髄というのは「なぜマーキュリーは生涯カミングアウトしなかったのか(またはできなかったのか)」を考察していくことであり、その苦悩や葛藤を描くことにあるのではないだろうか。それがより真実に近い“フレディ・マーキュリーの肖像”を描く作業のはずであり、そこにこそ本当に観客の感情を揺り動かす何かがあるはずである。

 

 ……と、ここまでいろいろと批判を連ねてきたが、さきほどのブライアン・メイのインタビュー冒頭で全てが腑に落ちた。

(記者)
お孫さんと映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観に行ったとインスタグラムに投稿していましたね。いかがでしたか?

(ブライアン)
すごい体験だったよ。彼の人生に大きな影響を与える出来事だったんだろうと思う。祖父と一緒に映画に行き、その人生がどのようなものだったかを知るなんて、ずっと覚えているんじゃないかな。

 要するに安心して孫と一緒に観られるお子様向けの映画が作りたかった、と。自身の偉業を孫に知らしめたかった、と。それが本作を製作する情熱のすべてであり、結果としてなんの面白みもない駄作が完成した。それだけの話だったのだ。悲しいかな、フレディ・マーキュリーの人生なんて孫の前には塵も同然だったのだ……。

 

 私はクイーンのファンではないが、クイーンのメンバーをある面で評価していた。それはマーキュリーの性格がどうあれ、移民でありゲイという異色のフレディ・マーキュリーという人間を抱えながら、結果として一度もクイーンを解散させることなく、またマーキュリーのセクシュアリティを受け入れながらメンバーが活動してきただろうことが見て取れたからである。(その「解散しなかった」という称賛すべき事実も作中では改変されてしまったのだが)

 作中でもマーキュリーのゲイ丸出しのルックスにメンバーが苦言を呈するシーンがあるのだが、重要なのはそのゲイ丸出しのルックスでフレディは実際にクイーンのフロントマンを務めていた、という“事実‘’である。メンバーは苦言を呈しながらも、マーキュリーのスタイルでステージに立つ自由を奪うことはしなかった。もちろんそれはバンド内の政治やビジネス上の戦略もあってのことだったのかもしれないが、そのことについてはとても好印象を抱いていた。

崩れゆくクイーンの肖像

 しかしわたしが勝手に描いていた良き“クイーンの肖像”は本作により揺らぎつつある。現在も驚異的なヒットを記録しつつある『ボヘミアン・ラプソディ』だが、ブライアン・メイロジャー・テイラーが、フレディへの誠意よりも私欲を優先させたことを露わにした本作は、クイーン史に残る汚点としかおもえない。

 それも、マーキュリーが生涯持つことが出来なかった“家族”のためにマーキュリーの人生が蹂躙されたのだと思うと、やりきれないのである。

Bohemian Rhapsody (The Original Soundtrack)

Bohemian Rhapsody (The Original Soundtrack)